ノリリスク

ノリリスクは中央シベリアの北方にあるロシアの都市です.人口が10万人以上の都市で,最も北に位置します.そのため,とても寒く,年間平均気温は-9.8度で,2月にいたっては-35度です.

ある世代の人にとっては,懐かしい響きのある都市だと思います.私が小学校 6 年生の時 (1975年) の社会科の教科書では,理想の都市として紹介されていました.ノリリスクでは家々までスチームが供給され,豊かに暮らしているというよなことが書かれていました.先生が日本と比較し,「とても進歩した生活環境がある」というような話だったと記憶しています.

当時は,社会主義 (共産主義) の幻想が,まだそこらかしこに残っていました.それは,文字通り幻想だったわけです.当時,それが幻想だななんで,だれもわかりませんでした.もちろん,僕もこの幻想を信じていました.

このノリリスクがどうなっているのか,気になって調べました.とても驚いたことに,「世界で最も汚染され場所」 (World’s Worst Polluted Places 2007) のワースト10 入りしていました.重金属が主な汚染源です.ノリリスクは鉱山都市で,そこから出てくる重金属の処理が不適切なため,世界で最も汚染された都市になったようです.

ノリリスクの工場
ノリリリスク

僕には,社会主義 (共産主義) の失敗を嘲笑する気は全くありません.ただ,懐かしさのあまり,ノリリスクを調べただけです.五十歳台も半ばを過ぎると,昔を懐かしむことがあります.

50年前に,サントス港から

ちょうど 50 年前の 1969 年6月のことです.僕たち家族はブラジルを離れた.その時,僕は6才で鮮明に憶えています.

ブラジルを離れる日,訳も分からず真夜中に起こされた.車に乗せられて,暗闇の中ひたすら250 km 先のサントス港を目指した.いつの間にか,家族だけになった.父親がパイナップルの缶詰とプラスチックの車のおもちゃを買ってくれた.その夜,ブラジルから離れることが悲しくて,ベットで泣いた.

海とラッキーストライク

大学4年生の夏休みのことです.いつものように,正午頃に起きた.その日,友人が海に行くと言っていたことを思い出した.俺も海に行こう.海水パンツとシャツ,サンダル履きで,原付バイクに乗り,堀江の海水浴場に向かった.青空,海に近づくと潮風が気持ちいい.

海についた.ひんやりとした水に入り,ひと泳ぎした.そして,友人を捜した.ちょうど,みんなが集まって,写真を撮ろうとしているところだった.なんとなく誘われて,一緒に写真を撮った.知らない人ばっかりだったが良い人だ.1/3くらいは女の子だ.なんかちょっと違和感があって,そのうちにゆっくりみんなと離れた.しばらくして,帰ることにした.

国道196号線を走っていると,瞬く間に空が黒くなり,強い夕立になった.雨の中,バイクを飛ばした.そして,大学の寮に着いた.胸ポケットからびしょびしょになったラッキーストライクを取り出した.

とっても強烈に覚えている夏の日です.あれから,33年も経ってしまった.

幼い頃の夏の思い出

ブラジルに住んでいた 5 − 6 歳の頃です.夏の暑い日,僕と弟は畑の横の坂道を裸足で歩いていました.もちろん,舗装道路ではありません.轍ができており,そこは黄土色です.道の真ん中は草が生えています.土の部分の轍は熱いので,真ん中の草の上を歩きます.太陽が照りつける青空,横はスイカ畑です.足の裏の感覚とこの風景を,妙に憶えています.

氷の思い出

私は6歳まで,ブラジルで育ちました.緯度で言うと,南回帰線のあたりです.北回帰線は北アフリカや中東,インド,台湾,メキシコを通ります.なんとなくイメージが湧くでしょう.といっても,暑いわけではなく,真夏の1月の平均気温は22度で,最高気温は26度です.真冬の7月の平均気温は15度で,最低気温は9度です.暑くも,寒くもなく,過ごしやすい場所です.

冬も温暖なので,雪が降ることはなく,氷も張りません.

ある朝,布団で寝ていると父親が砂糖をつけた薄い氷を食べさせてくれたことを鮮明に憶えています.大変珍しいことですが,氷が張るまで気温が下がったのでしょう.

昔住んでいたところ (幼い頃)

久しぶりに実家に帰って,両親と昔の話をすることができました.その時,ブラジルでの住んでいた場所の話になりました.私はどこに住んでいたか知らなかったのですが,大体の場所が把握出来ました.忘れないように,メモします.ピラル ド・スー (Pilar do Sul) とサン・ミゲウ アルカンジョ (Sao Miguel Arcanjo) の中間地点で,ちょっとサン・ミゲウ アルカンジョよりの山の方とのこと.

昔の思い出 (6歳頃:ブラジルの蝶々)

ブラジルに住んでいた時,隣の家 – 2km はゆうに離れている –
の5歳くらいの子供が蝶の標本を作っているのを見た.その時,私も同じくらいの年齢だが,妙に感動した記憶がある.標本といっても,そこらにある板に,捕まえた蝶々を釘で打ち付けただけのものである.普通に考えるとみすぼらしい標本だろうが,蝶々がとても美しく,なにか別世界のものを見ているような感じがした.羽が青や緑に光っている.電気も通っていない田舎に住んでいたので,光るものなんか見たことがなかったから,感動したのかもしれない.原始人がレーザーや青色LEDを見たような感じと言えば分かるだろう.

モルフォ蝶.
モルフォ蝶.ブラジルの蝶々は美しい羽を持ったものが多い.

その後,標本を作るわけではないが,ときどき蝶々を捕まえた.網なんか持っていないからざるで捕まえ,それを地面に逆さまにして活かしておく.ざるの中の小さなな美しい蝶々を今でもよく覚えている.

たぶん南米では一般的だろうが,ブラジルの蝶々はとても美しい.ピカピカ光った羽で飛び回っている.日本の蝶々はとても地味に見える.日本でとても上手に作られた蝶々の標本をいくつか見たが,あの時見た標本ほど美しい物を見たことがない.遠い昔の記憶である.もう一度,ブラジルに行って蝶々を捕まえたい — と考えている.

昔の思い出 (6歳頃:ブラジルの小学校)

ブラジルに住んでいた頃,一歳違いの弟と一緒に半年くらい日本人学校に通いました.自宅から小学校まで 7 [km] とかなり遠く(もちろん徒歩),いつも遅刻でした.あるとき,先生が自転車で追い越して行く時に,「今日も遅刻だね」というようなことを言われ,ちょっと悔しかったことを憶えています.

帰り道,いつも谷底に降りて,川の水を飲んでいました.なんせ,かなりの田舎なので,水はとてもきれいで飲んでも全く問題ありません.また,あるときに家の近くの川で小さな魚の群れを見つけ,それを捕まえたくて急いでざるを取りに行ったこともあります.

今の日本だったら,とても考えられないことですが,5歳と6歳の子供が 7 [km] の距離を通学していました.途中何もなく,舗装されていない道の両端はほとんどが原生林の森か,畑です.もちろん,民家なんかほとんどありません.たくましかったですね.

そんな中,しばらくするとその小学校にも通わなくなりました.両親は何も言わなかったことから,すでに帰国することを決めていたのでしょう.