文章を書くということ — 作文教育批判 —

今後,ますます多くの人が仕事で文書を書くことを要求されるだろう.社会が発展するに従い,文書を作成する仕事増えてくるからである.かつて,文書の作成は一部のエリートの仕事であった.しかし,いまでは多くの人が普通に,仕事で文書を書いている.したがって,きちんとした文書を書く訓練 (教育) が重要となるが,日本の教育の遅れは惨憺たるものである.ちょっと前に,国に提出する文書 (研究開発の提案書) を作成したが,指定のフォーマットが酷すぎた.何回も同じことを書かせるし,節と箇条書きの区別すらできていなかった.

そんな中,「村上式シンプル英語勉強法」(著者:村上憲郎)に面白いことが書いてあった.

私がアメリカにいたときのこと.…,あるときエレメンタリースクール(小学校)の関係者に話を聞く機会があったんです.
学校には「エッセイ(essay)」という授業がありました.日本で言えば作文です.それで,何を基準にしてどうやって評価しているのかを聞いてみたんです.
まず手書きのエッセイは評価が最も低いのだそうです.タイプライターで書いてあればよし.ワープロだとさらによし.それも,いろいろなフォントが使い分けすれば,もっとよし.これが最初の評価基準だと.
そして次がフォーマット.きちんと章立てしてあるとか,自分の主張と引用部分が明確に分かるように引用符やフォントを駆使しているとか,….これが2番目の評価基準.
「じゃあ,エッセイの内容は?」と聞くと,「私たちはエッセイの内容そのものを評価はしない.…,論理的に整合性を持って,論述されていればよろしい.見ているのは,そのエッセイがフォーマットされて,読みやすく整理されているかどうかだけだ」と.…

 

あたりまえのことだが,文書は読みやすいことが最も重要だ.アメリカの小学校の作文の教育ではそれが実践されている — ことをこのエピソードは示している.翻って,日本はとなるとお寂しい限りだ.